マレー系のナショナリストとして有名だった Mustapha Hussainは、戦後、次のように述べた。
"Although the Japanese occupation was described as one of severe hardship and brutality, it left something positive, a sweet fruit to be plucked and enjoyed only after surrender" - 戦時中の日本軍による占領下は、非道だったと言われているものの、じつは極めてポジティヴな影響をもたらしました。ただ、そのフルーツの甘みは、日本軍が立ち去って初めて味わうことのできるものだったのです (Bayly and Harper, "Forgotten Wars" )


我々の祖先が、第二次世界大戦において白人優越主義の殻を打ち破ってから、来年で70年を迎える。
アメリカ合衆国は、1913年および1920年に、日本人を狙い撃ちにした差別的な移民法を制定。さらに1924年には、日本人移民を排斥、禁止するという最低な法案を通過させた。当時の日本世論が、怒りで沸騰したことは言うまでもない。その反米気運の上昇が、あの戦争につながる一因となったであろうことは言うまでもなかろうが、それを指摘する外国人の歴史家を、ぼくは殆ど知らない。

1942年 - 1946年の間、日系人が強制収容されていたことも、第四十三代米国大統領のGeorge W. Bush氏も、Yu Darvishが在籍するテキサス・レンジャーズの現オーナーも、ビル・クリントンならぬマイクロソフトのビル・ゲーツも、ゲーツ前米国国防長官も、おそらく知らないだろう。


結論から言おう。

日本軍は、アジアを、いや、アングロ・サクソン系 人種差別主義者たちによって抑圧されていた全世界を、1945年8月15日に解放したのである。インドが独立を勝ち得たのは、1947年だったが、初代首相になったNehruは、その七年前には刑務所の檻に、それこそ家畜の如く繋がれていた。彼を独立主義者として大英帝国が、危険視していたからに他ならない。戦前、INA = インド国民軍を率いた英雄、チャンドラ・ボーズたちに軍事訓練を施し、金銭面の支援を惜しまなかったのも、鈴木啓司大佐率いる日本軍であった。今、どのインド人に聞いても "Chandra Bose" は「ネタジー」との愛称で、崇拝されている。英国人による搾取から、インドを解き放った男として。

ちなみに、今挙げた鈴木大佐は、ビルマおよびジャワの独立も背後で支援し続けた。
インドネシア初代大統領になったスカルノも、日本軍による厳しい訓練で力を付けたスマトラ・タイガーの一人だ。だからこそ、日本が原爆を落とされて降伏してから、わずか二日後の1945年8月17日に、独立宣言を行うことができたのである。






日本人よ。今こそ、近代史を学べ


恐ろしいことに、戦後七十年を迎えようとしている今、大半の日本人は上記に挙げた基本的な歴史的事実を、知らぬまま表参道アップルストアで、iPhone6のパネルを無心に叩いている。文科省および思考停止メディアが生んだ結果は、日本列島に「愛負音太郎」(アイフォーン タロー)という名の家畜が、自動繁殖していることを意味する。そして自国の歴史に無知な、こうしたマテリアル第一主義者がこのまま増殖していくことは、国力の弱体化に直結すると筆者は考える者だが、いかがだろうか!?

お金を稼ぐ「エコノミックアニマル」こそが、戦後日本のサラリーマンの代名詞だった。これまでは、それでよかった。年功序列でも機能していた。
しかし二十一世紀の今、四人に一人が六十五才の今、人口激減が確実の今、そして中国の台頭が顕著な今、もう過去の思考は通用しない。事実を知る、それが日本人の個人一人一人を、および国家そのものを強くし、守ることになるからに他ならない。


ぼくは今、この原稿を海外の某都市で書いている。

国内にいては、思考回路そのものが鎖国化および老化してしまう。やはり、島国に安堵するのではなく、度々外に出た方がいい。寺山修司が「書を捨てよ、町にでよう」と言ったのならば、ぼくは敢えてこう言わせてもらおう。

「和を捨てよ、海にでよう」


感謝祭 Thanksgiving ガダルカナルで戦った元米兵ジェームズさんと 谷山雄二朗 Turkey Petit.jpg

先日、「感謝祭」即ちアメリカ風に言うならば "Thanksgiving" ディナーで、元米海兵隊員だったトムさんに会った。

丸々太った、15キロほどあるターキーを食べるのが、アメリカ流。来年には、九十三才になるというトムさんだが、食欲は驚くほど旺盛だ。さらに特筆すべき点は、同氏が1942にソロモン諸島で始まったガダルカナルの戦いに、参戦した経歴の持ち主であるということだ。ウィキペディアのページには、日本軍死者二万二千、米軍死者およそ七千と記されている。あの戦争のターニングポイントの一つとなった、想像を絶する戦いで現に我々の祖先と命をかけて戦った勇士が、なんと二十一世紀の今、ぼくの隣りでターキーをモグモグ食べているのである。この時空を越えた感覚は、残念ながらぼくの未熟な執筆力では、到底綴ることが出来ない。「ハムもくれ」、とか「マッシュポテトに、Gravy sauce please」と、トムさんがアメリカン英語を放つたびに、「ガ島で日本兵と壮絶な戦いをしていた時も、夜襲を警戒しながら連合軍キャンプ地でとった夕食時に、同じことを言ったのだろうか」、と想像力は膨らむ一方だ。

耳は若干遠いものの、アルツハイマーでもない同氏。
自らガダルカナルの戦いを語られることはなかった。血の滲む過去なのかもしれない。失った戦友もいただろう。「たまたま私はあの戦場で生き残っただけさ。死ぬと思ったよ」と、ほんの一瞬、元米海兵隊が漏らしたフレーズに、ぼくは何億リットルもの血潮と涙を頭上から浴びた気がした。

温和なトム氏は、戦後のことを語りたがった。

「終戦後、私は日本に行った。そうだ、占領下の頃だよ。そこで、日本人の女性と恋におちたんだ。オーサカの子でね、私が横須賀にいると、会いに来てくれたものさ」

" I see sir..."

「ただ、同僚たちには "日本人の女性を将来、米本土に連れて帰ったら殺されるぞ" って脅されてね」 と、いまいち突っ込みようのないアメリカン・ジョークを放つ同氏でもあった。






欧米人的視点による、日本軍の「戦争犯罪」


貴重な出会いに「感謝」しながら、貴重なタンパク源を頬張っていたその矢先だった。

「日本は大好きだ。ただ、どうしてキミたちは過去の過ちを認めないんだ。教科書を書き換えたり、虐殺や、"カンフォート ウーマン" とかね」

ぼくの目の前の席で、モンスター・ターキーを瞬く間に平らげていた、ベンチプレス200ポンドを片手でヒョイと上げそうな、米国人プロレスラーの体格をした六十前後の米国人男性が、突然ナパーム弾を投下してきたのだ。とりあえず、ここでは彼の名前を "HULK" と呼ぶことにする。

テーブル全体の空気が、一気に帯広の然別湖レヴェルまで下がった。ハルクが、フォークをお皿に置いた瞬間を狙って、ぼくは口を開いた。

「日本が教科書を書き換えているというのは、事実ではありません。バイアスのかかった欧米のメディアが、そういう報道をしているだけです」

「そうなのか。でも、なんなんだキミたちは過去のことを認めないじゃないか」

「カンフォート・ウーマンとさきほどおっしゃいましたが、戦前の日本および植民地朝鮮では、貧しい家庭の娘は親に売られたのです。そういう時代であり、また当時の日本では売春は合法でした。可哀想でしたが、そこをまず理解してください」

 でも、性奴隷には変わりないんだろう、と不信に満ちた視線を向けてくるプロレスラー。他のゲストたちも会話の成り行きを注視している。

「ハルクさん、あなたは米国人ですね。あなたのそのアメリカ合衆国が、1944年10月1日に提出したオフィシャル報告書には、こう明確に書かれていることをご存知ですか。 "慰安婦は、単なる売春婦のことである" 、と。ワシントンにある米国の図書館から、この書類は公開されています。ネットでご確認できますので、ぜひ」

首を傾げながら、彼はまだ半信半疑の態を崩していない。
そこで、さらに続けた。

「歴史というのは、生き物ですからなるべく公平無私な視点で判断せねばなりません。日本国内でも、虐殺なり慰安婦なり様々な見方があります。よって日本人全体がみな同じ考えなどと、勘違いしないでください。そんな単純な話じゃない。欧米人は、なんでもケチャップとマスタードや、共和党か民主党など白黒で二分化しますが、東洋の物の捉え方にはその間のグレーゾーンというか、そう単純に白は白、黒は黒、と判断できない領域があるのです」

ハルクの顔色に、うっすらと変化の兆しを感じた、気がした。

「慰安婦に関して言うならば、とにかくロジック。ロジカルに、考えていただきたい。そのロジックを否定し、感情論にぶちまかせているのは、どちらなのか。今夜は祝いの席ですので、このテ−マで深入りはしませんが、ニューヨークタイムズ紙など、米国でもリベラルなメディアは特に、なんというか不当に戦前の日本を叩こうとする悪意のようなバイアスがかかっている。そうした意図的な情報操作の部分も、ぜひ頭の片隅に入れておいていただきたい」



その後も、「アメリカン プロレスリング」における言葉の肉弾戦は、ヒートアップしていったが、それはまた別の機会に触れることにする。

どうであれ、感謝祭ディナーの終了際、右腕がおそらく練馬大根3本分はあろうかというハルクが、右手を差し出して来た。ぼくらは、笑顔で、握手して別れた。意見の一致はみなかったが、歴史とプロパガンダ戦について考える貴重な夜となったことも、指摘しておきたい。


海外では、通常のディナーの席で、通常の会話のなかに必ず近代史はでてくる。そして、大半の外国人は溜め息がでるほど、勉強している。それは、社会的地位やいくらお金をもっているか、名刺の肩書きと関係ない。彼らは、純粋に「知っている」のだ。

我々は、そういう時代にいきている。

だからこそ、知らない我々は、現状のままでは勝ちようがない。言葉の壁以前の問題だ。

カダルカナルの戦いで、桜の花びらの如く散って行った日本人兵士たちに、絶えず感謝するためにも、そして靖国に堂々とすべての日本人が足を運べる国にするためにも、二十一世紀の日本人に課せられた責任は重い。たかが消費税2パーセントに、一喜一憂している余裕などない。ブロイラーか、七面鳥に堕ちてしまう前に、戦後七十年を機に魂を入れ替えようではないか。

あの島で亡くなった、日米両軍の兵士に、黙祷。




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