"Singapore Independence & Japan"
Dec. 30th, 2014



As we are about to enter "70 years after WW2" , I believe it is a crucial timing to view history from an impartial perspective. It will surely lead to a better understanding of the world we live in.

Reporting from "Old Ford Factory" in Singapore.





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山下奉文大将が、英軍パーシヴァル司令官に降伏文書サインを迫った、一枚の写真。

ご存知の方も、少なくないと思う。

今回、ぼくはその「現場」を訪れた。前回、ご紹介した「昭南 忠霊塔」から車で二、三分ほど行った、Bukit Batok の同じ丘の上にその場所はある。旧フォード工場跡だ。

案内スタッフの男性によると、戦時中は工場そのものを日産自動車が使用し、軍事車両を生産していたとのことであった。

入館する際、このスタッフ(以下、ブキバト = BB)と立ち話を若干したのだが、シンガポールの日本占領下を "Dark ages of Japanese occupation" と断定的に形容したので、待ったをかけた。

「あなたは、シンガポール陥落後を "暗黒の時代" と言いますが、本当ですか」

「ええ、それはもう」

「わたしは、あなたの見解に疑問を抱くものです」

どうやら、この「旧フォード工場跡 記念館」なる建物は、我が国のイメージを真っ黒に描いている予感がした。残念ながらBBが、歴史家だとは到底その場では思えなかったが(サンダルを履いていたと記憶している)、いずれにせよ「戦前の日本軍は、悪であった」という従来のアングロサクソン的な歴史観に、強く縛られた人物であることだけは間違いなさそうだ。


当然ながら、日本軍が戦前行ったことのすべてが正しかった、などと言い張るつもりは筆者にはない。
戦争というもの自体が、極めて残虐な異常行為の連続だからだ。勝つか、負けるか。目的を達成するためには、手段は事実上無視される。広島と長崎への原爆投下を見てみよ。1945年3月10日の東京大空襲をみてみよ。一般市民への無数なる非道な空爆ぞ、「自由と民主主義」の国、アメリカ合衆国の常套手段であったのだ。


1942年から、1945年までの四年近い年月、シンガポールは日本の占領下に置かれた。
十万とも、十三万ともいわれる英軍捕虜は、チャンギー収容所など、複数の場所に隔離された。わずか一週間で、英軍パーシヴァル司令官が降伏するなど、日本側としては想定していなかったにちがいない。よって、予想を遥かに超える捕虜を「食べさせる」必要性が、急浮上した。

そもそも、イギリス東インド会社を1600年に設立して以降、大英帝国はアジアを搾取してきた。
「白人のご主人が一番偉い、優越民族であり、黄色人種は未開な奴隷にすぎない」 という固定観念が一般的だった時代が、三百年以上続いたのだ。大英帝国のイギリス軍人たちが、毎晩ジントニックを煽りながら余興に興じていたであろうことは、想像に難くない。精神的にも、肉体的にも強度にビルドアップされていた、当時の日本軍および日本軍人に打ち勝つ土壌からして、皆無だったと筆者は考える。だからこそ、たった開戦わずか7日後の、1942年2月15日に降伏したのである。






JTBの怠慢、および館内宣伝映画


ところで今回、この「旧フォード工場跡 記念館」を訪れる前に、奇妙なパンフレットを偶然目にした。

地元のフリーペーパのようだが、そこに「歴史ガイド 顔夕子さんによるシンガポール 戦争歴史ツアー」といったタイトルで、彼女のインタビューが手短に掲載されてあった。名前をみる限り、「顔さん」をどう発音すべきなのか迷ったが、「がん ゆうこ」さんと言うらしい。

経歴を見る限り、鹿児島生まれで 1967年にシンガポール人のご主人とシンガポールに渡ったと書いてある。それから、ガイド歴47年だそうだ。

この「がんさん」がプランした、日本軍歴史ツアー in シンガポールの内容を観てみたが、「中国人数千人が、日本軍の手で虐殺された場所」など、あたかも中国共産党の機関紙 "人民日報" の記者が書いたもののようである。昭南忠霊塔も、紹介してはいるものの、全体的に「イギリス人が書いた歴史」の臭いが漂っている。それもそうだろう、同氏がシンガポールに訪れた1960年代には、まだ英軍が駐留していたのだから。

つまり、ミャンマーのアウン・サン・スーチー氏のように、表向きはアジア人でありながら、中身は英国式。顔さんも、例外ではなかろう。だからこそ、本格的な歴史検証がないまま、イギリス側の主張を鵜呑みにし、それを奈良女子大学の女学生たちに「すべて真実」として教えているのである。

ここで大問題なのは、どうやら我が国を代表する旅行会社の一つ、JTB = Japan Travel Bureau が、この女性を公式ガイドとしてシンガポールで雇用している可能性が高いことだ。前述したフリーペーパーを見る限り、「日本軍歴史ツアー」のマップや、簡単な説明は記されているが、具体的にどうやって訪れるのかはまったく書かれていない。ところが、次のページをめくると、「JTB 日本軍歴史探索ツアーはこちら!」 といった見出しで、有料ツアーが紹介されている。つまり、よほどの間違いがない限り、JTBは「顔夕子氏の歴史認識はすべて正しい」との見地から、彼女をガイドとして雇っていると考えて間違いないだろう。だとした場合、JTBツアーで現地を訪れた日本人のみならず、このパンフレットをみてシンガポールで急遽参加した家族連れを含め、誰もが顔氏の語る言葉を「真相」として受け止めたうえで、帰国することを意味する。これは、極めて危険なことではないだろうか。

もともと、1967年にシンガポールに引っ越した直後は、同氏は日系企業の掃除係として働き始めたという。つまり、歴史の専門家ではない。その後、独学されて歴史ガイドになられたのだろうが、それらの情報はすべて日本軍によるシンガポール陥落を、「悪」として断罪するイギリス人、ないしはリー・クアンユー初代首相の如く英オックスフォード大学で教育を受けた「アジア顔のイギリス人」たちが、自己正当化するために編み出した歴史のみを「独学」されたということだ。果たして、それでフェアな、公正無私な史実を後世に伝えることが可能だろうか?

筆者は、JTBの姿勢に強く疑問符を投げかける者である。


最後に、今一度強調させていただきたい。戦争行為である以上、1942年のシンガポール陥落に際し、残虐行為がなかったかといえば、当然それは嘘になろう。戦そのものが、血まみれな殺し合いだからだ。意図せず投獄された民間人も、当然いたであろう。とはいえ、それらの数字を検証なくして膨らまし、13万もの捕虜を出し世界の嘲笑の的となった当時の大英帝国の汚名を晴らすため、徹底的に敗戦国の顔に泥を塗ろうとせんとする悪意が、仮にあるとするならば、それを堂々と受け止めたうえで、想定したうえで我が国は対外発信ないしは反論を行っていく必要があろう。


1822年、事実上の「シンガポールの父」となったラッフルズ、その後百年以上に及ぶ、イギリス植民地支配を経て1965年、シンガポール独立。これらの歴史の流れを汲み取り、さらには現在のこの国の「正当性」なるものを強調するためには、戦前の日本軍はスターウオーズの "Darthvader" として描く必要があるのだ。彼らにとってそれが苦肉の策なのか、それとも計算されたものなのかは、明確にはわからない。とはいえ、「日本軍占領下 = Dark ages , 暗黒の時代」との描写が、今の同国は若干強過ぎると感じたのが、今回、旧フォード工場跡を訪れて感じた、率直な想いである。


その場を立ち去る際、筆者は現に、案内係スタッフに釘を刺すことを忘れなかった。


「この記念館なる建物の説明文、および動画などさまざまな描写は、anti-Japanese sentiment すなわち反日的なバイアスが、多分にかかっている。この21世紀に、これほど偏った展示も珍しい」

BBは、苦笑いしたまま、何も言ってこない。

「そもそも、仮にももしもここで描写されているような悪事、虐殺ばかりを当時の日本軍が実際に行ったのならば、なぜ今のシンガポールの人々は、ここまで親日的なのですか。このギャップを、どうご説明するつもりですか? できますか?」


問いつめたが、返事はまったくなかった。


去り際、BBが恐れ多くも玄関の外まで、筆者とカメラマンのRを見送りにきた。「あなたは本当に日本人ですか」と、硬い表情で言う。当然、頷く。彼は最後の最後に、興味深い話を一つだけしてくれた。

1942年 2月15日、山下奉文大将率いる日本軍によるイギリス軍降伏・シンガポール陥落は、その年の "Chinese New Year" の初日だったという。血なまぐさい戦闘の結果とはいえ、123年にも及ぶ植民地支配からの解放が、「中国人新年の祝日開始の日」であったとは、これまたなんという巡り合わせであろう。

天命というのか、奇遇、それとも運命というのか。

 戦後七十年を迎えようとしている今、我々のご先祖の方々が成し遂げた偉業を、新たなるアングルから理解すべきとの衝動が、高鳴ってやまない。



谷山雄二朗 - JB's Editor in Chief



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