General Aung San fought for independence.
Japan's 'Rising sun flag + Aung San T shirt' on sale in Yangon tells it all! Rest in Peace all the British, Indian, Malay and the Japanese soldiers that offered their ultimate sacrifices in the war
April 5th, 2015 / Last updated July 2017


ミャンマーの首都、ヤンゴン。
四月上旬の日中の気温は、「42℃だよ」、と地元のタクシードライバーは言う。確かに、流れ出した汗が止む気配はない。
市内中心部にて輝くスリ・パゴダ。ゴールデン・モニュメントと呼んでもふさわしいほど、それは金色に光っている。
チャイナタウン方面から、その「輝き」に向かい東へ歩いている最中だった。昼下がりの喧噪のなかに、突然ぼくは見覚えのある「デザイン」に反応したのだった。所狭しと並ぶ露天のなかに、不思議なTシャツが視界に飛び込んできたのだ。

なにを隠そう、それは紛れもない日本海軍の旗であった。
しかも、感嘆したのはその旭日旗が「ミャンマーの英雄」アウン・サン将軍と、彼の娘であり国民的人気を誇るスーチー氏に挟まれる形で旗めいていたことである。思わず、ぼくは言葉を失った。数秒間、動けなかった。戦後七十年、日本から七時間もかかる東南アジアの大地にて、今もなお「歴史」は息づいていたのだから。

しかも、お店のおばちゃんに聞くとこれは最後の一枚だという。ぼくが鼻息荒く「General Aung san fought with Japan during World War 2 you know! 」と叫ぶと、彼女は "Yes, yes" と白い歯を見せたがきっと何も知らないのだろう。「買うか、買うか?」とだけ迫ってくる。「オレは日本人。日本とミャンマーは、アウンサン将軍の時から、お友達だぜ」と言うと、その意味を理解しているのかは不明なものの、おばちゃんはニコニコしながら値段をバーゲンしてくれた。



歴史を学んでいるミャンマー人が、いる

ここで重要なことは、このTシャツをデザインした人(おそらく地元の人)が、アウンサン将軍がイギリスからの独立を実現すべく、1942年から1945年3月の間、日本に軍事援助を要請し共に闘ったという史実を学び知っていたという点である。でなければ、このようなデザインは生まれようがない。補給を考慮しないまま無計画にインド最東端の要衝に攻め込んだ、いわゆる「インパール作戦」をぼくは全面的に肯定する者ではない。旧日本軍第53連隊付で、ビルマ戦線に参加した井上朝義氏の著書「彷徨 ビルマ戦線」によると、当時のビルマを拠点に「インパール作戦」に投入された日本兵10万人のうち、三万人以上が死亡、42,000が負傷。「前線の兵は、雨季の最中、食べるものもなく、さながら幽鬼のようになり退却した」、と書かれている。

また、同書には次のような記述もある。
「当時、ビルマ戦線に送り込まれた日本兵二十六万。そのうち、戦後無事祖国に帰還できたのは、わずか七万人であった。つまり四人のうち三人は、ビルマの大地で亡くなったのだ」、と。一言一句このように書かれている訳ではないが、要約すればこうなる。


戦後七十年の今年、我々日本人はこうした厳しい現実がかつて実際にあったことを学び、それを後世に伝えていくべきである。なぜならば、今日の日本の平和と繁栄はミャンマーの土となった彼ら無数の旧日本兵という名の「礎」なくしては語れないからだ。確かに終戦間近、日本が負けるであろうことを悟ったアウンサン将軍は日本軍を見切ってイギリス側に「寝返った」わけだが、状況次第で第三者が強き側につくのは歴史の常である。責める訳にはいくまい。

ただ、ぼくら今日の日本人が誇っていいことは、我々の祖先は今から七十年前、世界の歴史を変えるという大偉業を成し遂げたという点に他ならない。"White supremacy" 即ち白人優越主義・植民地主義から、無数のアジア人を解放したことは否定のしようがない事実ではないか。今回、ぼくが運命的に出会った「日本海軍旗と、アウンサン親子のツーショットT」こそが、その何よりの証拠である。あの戦争が、欧米メディアや日本のリベラルな新聞がこれまで度々指摘してきた「単なる残虐な侵略」で本当にあったならば、この21世紀に旭日旗を堂々と中央に載せたシャツが、ミャンマーの首都の市場に出回っているはずがない。

そう、ぼくらは堂々と上を向いていいのである。

戦争は、キレイゴトではない。血なまぐさい殺し合いこそが、日常である。前述した旧日本医療兵の井上氏の著書にも、イギリス軍爆撃機が「負傷患者や看護婦が多数いる病院施設」であることを明確に把握しながらも、容赦なく爆弾の雨を投下し死者と瓦礫の山にしたことが明確に記されている。あの戦争で米英連合軍が一方的に正しく、逆に日本が一方的に悪者であったことなどありえないのだ。繰り返すが、その証拠こそが今回のTなのである。

日本は確かにあの戦争に負けた。しかし、当時のビルマの人々の愛国心に火をつけた。それがその後の独立につながった。
それだけは紛れもない事実であり、現代のいかに偏った欧米知識人でも認めざるを得ない歴史である。現に、ぼくはヤンゴンの本屋さんで先日、「日本軍がビルマ人の愛国心に火をつけたのは、否定のしようがない事実だ」とミャンマーの知識人が書いた本をみつけたぐらいだ。


狭い鎖国思考にとらわれるのではなく、過去から学び、それを明日につなげよう。

かなり旨い「Myanmar Beer」の冷えたボトルを傾けながら、そんな事を考えている。

チーズバー、ミャンマー!  (ありがとう、の意)


 YT





Rising sun flag and Aung San suukyi - Yujiro Taniyama.JPG




旭日旗とアウンサンスーチー Yujiro 谷山雄二朗 Taniyama.JPG




Yujiro 谷山雄二朗 Taniyama in Yangon 2015.JPG




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